2010年10月8日金曜日

ブルックナー 交響曲第6番イ長調





   私は10数年前までブルックナーの交響曲が大好きで、ことあるごとに様々な演奏に触れてまいりました。特にヨッフムがベルリンフィルを指揮した第9は心底共感し、あの長い曲を何度も聴き返したことをよく覚えています。ブルックナーの交響曲から放たれる音の響きは独特でこれまでの西洋音楽の通念とはちょっと違うものでした。特に自然の情景が次々に移り変わるように場面が転換される構成は私にとってかなり新鮮だったのです。
  
 しかし、ブルックナーの交響曲が日本の演奏会でよく取り上げられるようになった90年頃からは逆にかなり距離を置くようになったのです。なぜそうなってしまったのかは自分でもよく分からないのですが、きっとあの長い導入部と展開部に浸る心のゆとりがなくなったのが原因ではないかと思うのです。

 我ながら、いつのまにか考える時間や瞑想に耽る時間が少なくなってしまった……。とつくづく感じるのです。毎日時間に追われ、世のデジタル環境の整備が伴う中で、アナログ的な目に見えない大切なものを次々に失ってしまったのではないかと思うのです……。もう一度自分をリセットしたいと思うことしきりですが、世の中そう甘くありません。日常の生活では決められたタイムテーブルに沿って行動していかないとたちまちはみ出し者になってしまいます。しかも時間は無常にも過ぎていきます。そのような意味でも毎日どれだけ濃密な時間を過ごせているのかは甚だ疑問です。

 そうなのです!ブルックナーの交響曲は時間や世の動向という制約からはまったくといっていいほど解放されているのです。ゴールへの強烈なプレッシャーが無いのです。ブルックナーの音楽の本質は今ある美しいメロディーをいかに感じ、心に溶け込ませるかなのです。忙しさのあまり、純粋な心、オープンな心が閉ざされるとブルックナーのあの悠々とした大河の流れのような響きはとても辛くなるのです……。

 極端な話、ベートーヴェンやマーラーの交響曲と比べると、ブルックナーの音の響きのありようはまったく違います。ベートーヴェンの交響曲が強い主張と存在感の固まりで、絶えず「こうだ!」と明晰な断定の基に曲が作られているのに比べ、心象風景のように悲しみ、嘆き、喜び、友愛、感謝といった諸々の感情が祈りの中に集約されたブルックナーの音楽は明らかにカトリック的な人生観や宇宙観が核心を占める特異な存在ではないかと思うのです。


 前置きが長くなってしまいましたが、ブルックナーの交響曲第6番は例にもれず美しい作品です。特に第2楽章の神聖な光に終始照らされたような趣きのあるこの楽章は疲れた心に水が染み込むかのように慰めと潤いを与えてくれます。寂しげな表情で慈しむようにじわじわと心に接近してくる第1楽章も忘れられません。決して演奏される機会は多いとはいえない作品ですが、穏やかな光と風が全編に流れ、詩情あふれる作品として忘れることのできない作品です。
 この作品はヨッフムがバイエルン放送交響楽団と組んだ古いほうの録音が、シュターツカペレ・ドレスデンと組んだ演奏よりも詩情に溢れ、無垢な表情をうまく表現していると思います。特に第2楽章の見事さは何回聴いても飽きることがありません。ブルックナーの音楽の美しさを最大限に浮き彫りにした演奏とはこのような演奏を指して言うのかもしれません。



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