2017年6月28日水曜日

J.S.バッハ ミサ曲 ロ短調(BWV 232)

















ライフワークのように、
数十年もの歳月をかけて作曲された名曲

音楽の形式や言葉は明らかにカトリックのミサなのに内容的、精神的にはコラールを中心にしたカンタータやモテットに近いという何とも厄介(?)な作品がバッハのミサ曲ロ短調です。

この作品はバッハがライフワークのように、数十年もの年月をかけて段階的に作曲した作品でした。

「神に栄光を帰す」を生涯のテーマに掲げて創作に取り組んできたバッハにとって、これは作品の成立した背景や内容においてもその結論と考えてもよろしいでしょう。

輝かしさ、敬虔さ、宗教的情感、声楽作品としての芸術性の高さ、どれをとっても非の打ちどころのない作品ですね。特に傑出しているのは、全体の半分以上の割合を占める合唱でしょう。

それぞれの合唱は独立した声楽作品というよりは、キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥスというミサ曲の括りの中で有機的な関係性を持った神へのメッセージでもあるのです。

ですから、この作品をお聴きになる場合は選んで聴くよりは、通して聴いていただいたほうが(またはキリエ、グロリア、クレド…と、括りで聴いていただくのも良いかと…)はるかにバッハが何を言いたかったのかが直接的に伝わってくるはずです。



プロテスタントと
カトリックの壁を
超えたミサ曲

キリエの合唱で、冒頭から形を変えて何度も繰り返される「主よ我を憐れみたまえ」のフレーズは通常ですと単調になりやすい構成です。しかしバッハの手にかかると、打ちひしがれた魂が次第に音楽としても言葉としても高揚し、敬虔な響きとなり、遂には神に許しを請う強い実感を伴った響きとなって伝わってきます。グロリアやクレドの壮麗さは音による輝かしさではなく、愛と信頼による心の調和や平安を願うバッハの心意気が作品として強く息づいており、曲が進むにつれて胸が熱くなってきます。

また、グロリアの中間部と全体の最後に挿入される「Qui tollis peccata mundi」と「Dona nobis pacem」は歌詞こそ違えど、まったく同じ旋律のコラール(ルター派をはじめとするドイツ・プロテスタント教会の礼拝等で歌われた賛美歌)で、この作品の大きなアクセントになっています。同じコラールのはずなのですが、どういうわけか違うナンバーに聞こえてしまうのは、やはりバッハの曲中の扱い方や巧みな構成力の成せるわざなのでしょうか……。

この作品が出来上がった背景には諸説ありますが、私が思うにはバッハが誕生する数十年前、ドイツでは30年戦争(1618年~1648年にかけて、ドイツやヨーロッパ諸国を中心にプロテスタントとカトリックの間で起きた歴史上最大の宗教戦争)の開戦中でした。おそらく、大多数の国民は終わりなき戦いに辟易し、疲弊していたことでしょう。

前述のように「神に栄光を帰す」というポリシーで作曲してきたバッハにとって、そのような世の不条理と同じ神を信じる者の醜い争いには到底我慢できるはずがなく、その強い想いがプロテスタントとカトリックの壁を超えたミサ曲として結実させた一因になったのではないでしょうか……。



バラエティに富んだ
様々な名盤

ミサ曲ロ短調は録音が非常に多く、演奏形態もモダン楽器やオリジナル楽器の演奏の他、合唱のパートも大人数、少人数の演奏と多種多彩で、様々な名演奏を聴くことが出来ます! 「ミサ曲ロ短調」は作品の内容、スタイルからしてもマタイ受難曲やヨハネ受難曲のようなドラマチックで情緒豊かな演奏向きとは違い、無駄な表情や過剰な思い入れはできるだけ排除したシンプルなスタイルが好ましいように思われます!

中でも最も心惹かれるのが、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(SDG)です。2015年のライブ録音ですが、とにかく合唱の精度の高さは半端ではありません。特にグロリアやサンクトゥス等では主題というより、ともすればサッと流してしまいかねない中間部や経過句といったつなぎの部分のうまさが際立っています!
ソリストたちの歌も大袈裟な表現になるのを極力抑え、それぞれ透明感を湛えつつ、心地よいバランスと表情を保っているのがいいですね。
全体的に極めて音楽性が高く、流れを損なうことなく一気に聴かせてしまう表現力はさすがです。しかも、しっかりと本質を突いており、先入観なしでミサ曲ロ短調を聴いても充分に美しく、聴く喜びを与えてくれる演奏でしょう。

トーマス・ヘンゲルブロック指揮バルタザール=ノイマン合唱団、バッハフライブルク・バロック・オーケストラ(ドイツハルモニアムンディ)もオリジナル楽器の演奏ですが、合唱も管弦楽もまったくわざとらしさがなく、自然な発声と情感溢れる表現が素直に心に響いてきます。恐らくミサ曲ロ短調で、これほど心の通った合唱のハーモニーを聴くのは初めてのことではないでしょうか……。ヘンゲルブロックのタクトも奇をてらわず、見事としか言えません!









2017年6月19日月曜日

シューマン 交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(2)













重厚なロマンの香りと
勇壮な迫力!

ロマン派の大作曲家シューマン。そのシューマンが重厚なロマンの香りを最大限に発揮した交響曲が第3番「ライン」でしょう。

まず驚くのが、何かが吹っ切れたかのように、迷うことなく勇壮に前進する第1楽章の迫力です。何というインパクトと情熱でしょうか!序奏なしで、いきなり開始される堂々とした第1楽章の第1主題からこの曲に惹きつけられてしまいます……。しかもその曲調はシューマンらしい歌にあふれ、美しいロマンチシズムを醸し出していて、片時も聴く者を退屈にさせません。

人によっては重苦しい作品だと評価する方もいらっしゃいますが、私は決してそうは思いません。
むしろシューマンは「ライン」を作曲した時、よほど調子が良かったのではないでしょうか……。印象的な第1主題、第2主題をはじめ、訴える力、発展する要素、高まる情感、すべてにおいて渾然一体となった魅力が充満しているのです!

第2楽章は同じ音型を小刻みに繰り返す主題がゆるやかなラインの流れを想起させます。ここでも第1楽章同様に随所に奏でられるホルンの響きが心のゆとりと風格を伝えてやみません。中間部の管楽器が奏でる淡く悲しい憂いの表情も後ろ髪を引かれるように過ぎ去っていきます……。

第3楽章はもっともシューマンらしいメロディが頻出します。夢と現実を交差するようなロマンチシズムの極みは何とも言えない情感を拡げていきます。
ケルンの大聖堂から着想を得たといわれる第4楽章は厳粛で崇高な響きが鎮魂曲や祈りにも似た全曲のクライマックスと言えるかもしれません。フィナーレの颯爽とした展開や充実した展開部、怒濤の迫力を醸し出す終結部分も見事です。



チェリビダッケと
ジュリーニの名演奏

真っ先におすすめしたい演奏はセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィル(EMI)の演奏です。「ライン」はロマン的情緒あふれる作品だけに、どちらかというと、いわゆる巨匠風の武骨な表現が相容れない作品でもありました。しかし、この演奏は違います。相変わらずのゆったりとしたテンポなのですが、深い呼吸と細部の彫琢があまりにも見事なためスローテンポが気にならなくなってしまうのです。 演奏の素晴らしさがスタイル云々の問題を超えた数少ない例のひとつではないでしょうか!

雄渾な迫力と持続する集中力も圧倒的で、シューマンの心の動きさえ伝わってくるようです。何度聴いても飽きず、おそらく「ライン」からこれほど深い意味を表出した演奏はなかったのではないかと思います。

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルスフィル(ユニバーサル・ミュージック)は万人向けの名演です。旋律は良く歌われ、メリハリが効き、この曲からイメージされるロマン的な特徴をことごとく兼ねそろえた理想的な表現といっていいでしょう。演奏スタイルにしても、テンポや楽器のバランスが絶妙で、管弦楽の立体的な構築や密度の濃さにも特筆すべきものがあります。作品との相性の良さが、これほどまでの名演奏を可能にしたのかもしれません。

2017年6月15日木曜日

クラシック音楽の魅力と効用!?(2)










人間の本質的な部分に共鳴して
作曲されるクラシック音楽


クラシック音楽は「波長が高い」とよく言われます。
それはなぜなのでしょうか?

一般的にクラシック音楽を構成するテーマや形式、旋律、音色はキリスト教文化の中で誕生し発展した経緯がありました。つまり、クラシック音楽にはキリスト教精神のひとつの要素である「愛と寛容」の精神が多かれ少なかれ脈々と受け継がれてきたのです。交響曲、協奏曲、独奏曲、室内楽曲、声楽……と、どのようなジャンルの作品であっても、そこには繊細で優美な感情が込められている場合がほとんどです。

喜びに震えたり、哀しみにうちひしがれたり、祈りであったり、瞑想や崇高な感情であったりと、人間の本質的な部分に共鳴して作曲されているので、知らず知らずに高い境地に引き上げられていくことが多いのです。

たとえばバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴くと、そのことが強く感じられます。プレリュードとフーガのそれぞれの曲がまるでひとつのメッセージのように心の奥底に染み入ってきます……。それは忘れかけていた遠い記憶であるかもしれないし、心の満ち足りた想いを想起させるものかもしれない、また、哀しみをそっと慰めてくれるものかもしれない……。
一編の詩のようでもあり、短編小説のようでもあり、ひとときの夢のように私たちの心に滔々と語りかけてくるのです。



自分だけの名盤!
鑑賞が深まる契機に

当然、クラシック音楽は大作曲家が残した作品の演奏を聴いて楽しむことなのですが、時として聴き手が創造に加わっているような感覚を味わえることもあります。

たとえばベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を聴いた時に、爽やかなスッキリとしたスタイルの演奏だったとしましょう。でも「それがあまりにもスッキリしすぎて物足りない……」、「もっとスケールの大きい演奏が聴きたい……」、そのような欲求が心の奥底から出てくることがあります! そのように思った瞬間、あなたの感性の扉は大きく開かれ、作品の本質に大きく踏み込んだとみていいでしょう。それと同時に再創造的な作業が実行された瞬間であるといっても決して過言ではないのです!

クラシック音楽の聴き方はこれが正しい、こうでなければならないというルールや解答は一切ありません。同じ曲を聴いたとしても、感じる世界は人それぞれです。その人が育った環境や個性、経験等によって感動の度合いや伝わリ方にも当然のように違いが出てくるのです。

世には音楽評論家というお仕事があって、その方々が推薦するいわゆる名演奏やCDの名盤はたくさん存在します。しかし忘れてならないのは「世評の高い名盤=私にとってのいい演奏」とは限らないということなのです。

ですから、多くの演奏やCDを体験しながら、まずは自分にとっての相性のいい音楽、入っていきやすい音楽や演奏を見つけることも裾野を広げる近道かもしれません。心の音楽と思える作品や演奏家が見つかったときの喜びはたとえようがなく、それは終生の心の財産になり得る可能性もあるのです。


本当は楽しい
クラシック音楽

最後に一つだけどうしてもつけ加えておきたいことがあります。
日本では現在でもクラシック音楽を教養としてとらえる傾向があるのですが、クラシックファンとして、それはある意味とても残念で、寂しいことですね……。

かつて、小学校や中学校の音楽室には大作曲家の肖像画が一つの権威の象徴として張り出されていたものでした。それがクラシック=難しい=特別なもの、堅苦しいものという図式を生んでしまったのかどうかは定かではありませんが、どうもクラシックというと煙たがられ、雛壇の高いところに置かれてきたように思います。

私はこれまでクラシック音楽を教養として聴いたことは一度もありません。
おそらく教養として聴いていたなら、クラシックを好きになることもなかったでしょうし、途中で嫌になって聴かなくなったことは間違いないでしょう。

クラシック音楽の良さは同じ曲を聴いても、演奏家や指揮者が変わるとまったく違う性格の音楽に聴こえることがあります。それがいいのですね……。そうでなければクラシック音楽は理屈っぽくて平面的でつまらない音楽ジャンルになりさがってしまうことでしょう。

これがいわゆる一人一人の個性、感性や芸術観、表現の多様性によるオリジナリティの原点ですし、芸術の妙味なのです。それだけ音楽は奥が深く味わい深いものなのかもしれません。

本当はもっともっとクラシック音楽の良さ、楽しさを実感できるようなイベントが頻繁にあったり、(唯一、ラ・フォル・ジュルネオ・ジャポンは貢献していると思います)気軽にクラシックの生の演奏に触れあう機会やメディアでの啓蒙があればどれほど素晴らしいことでしょうか! 日本のクラシック音楽界や団体にも大いに努力していただきたいものですが、いかがなものでしょうか……。

2017年6月5日月曜日

ハイドン 交響曲第104番ニ長調

















ワクワクドキドキの
ハイドンの交響曲

ハイドンは生前約40年にわたって100曲以上の交響曲を作り続けてきた文字通り「交響曲の父」でした。
その作品はいずれもハイドンならではの魅力がいっぱいに詰まっています!たとえば、主題では明るい笑顔を振りまいたり、可愛らしい一面を覗かせている……と思いきや、見事な主題の展開に息をのんだり、コーダや中間部では突然、雄大なスケールのフーガに圧倒されたり、終始聴く者の心をワクワクドキドキさせてやまないのです!

そのハイドンの交響曲の集大成のような作品が、言うまでもなく最後の交響曲「ロンドン」ですね!

ただし、これまでの交響曲と違う一面も見られます。
特に顕著なのが第1楽章の序奏でしょう。どちらかというと、これまでは主題への橋渡し的な役割が強かった部分ですが、この作品ではオープニングから緊張感が漲り、哀しみに満ちたテーマが一つのクライマックスを創りあげているのです!これはロンドンセット全般に言えることなのですが、中でも104番は顕著ですね!

第1主題が出てくると曲調は一変。懐かしい微笑みを浮かべたテーマが春のような彩りを届けてくれます。もちろん、それは単に明るく爽やかなだけではありません。涙を振り払いつつ、一歩一歩前進していこうという気概や哀しみに揺れる心が共存しているのです。

その揺れる心が絶対的な確信へと変貌するのが第4楽章フィナーレです。
この踊るような推進力に満ちたテーマを聴けば、誰もがベートーヴェンの交響曲第7番フィナーレ(ワグナーが「舞踏の神化」と称した)を思い出されるかもしれません! 民謡風のメロディーは明るく快活に奏でられ、まるで生きる歓びを謳歌するようにドンドンと音楽は発展していきます。

第2楽章のどっしりとして、心のゆとりや風格を感じるテーマも見事ですし、第3楽章の小気味よいテンポとおどけたテーマも秀逸です!



例外的にモダン楽器演奏がしのぎを削る
交響曲第104番「ロンドン」

ハイドンの交響曲の演奏は近年、オリジナル楽器の演奏が主流であることは間違いありません。確かに名演奏もオリジナル楽器版が多いのですが、私は104番に関する限り、モダン楽器のほうがいいと思いますね。なぜなら、オリジナル楽器だと、どうしても序奏の表現に音色の厚みや芸術的な深さが乏しくなってしまう恐れがあるからなのです……。

そういう観点で最も素晴らしいのが、セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルハーモニー(ワーナークラシック)の演奏です。まず、序奏の重厚で厳かな響きと緊張感に心を鷲掴みにされます。第1主題への自然なフレージング、呼吸の深さ、楽器の豊かな響き等、いずれもハイドンが伝えたかった本質が伝わってくるといってもいいでしょう。第2、第3楽章も焦らず、急がず、そのインテンポの中でハイドンの音楽の豊かな音色を存分に聴かせてくれます!

カール・シューリヒト指揮フランス国立管弦楽団の録音(ALTUS)は1955年、フランス・モントルー音楽祭のモノーラル・ライブですが、ドラマチックでありながら、ハイドンの本質をしっかりと捉えた屈指の名演奏です。特に第1楽章の1小節ごとに表情が変わる感性の鋭さや楽器の潔い音色、生き生きとしたテンポの流動感、フレージングは見事の一言です。

シギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンド(ドイツハルモニアムンディ)はオリジナル楽器ならではのテンポといい、楽器の彫りの深さ、スタイルの洗練された美しさといい、モダン楽器にはないシャープな感覚で魅了します。奇をてらわず、そうかといって薄味になることもなく、ハイドンの本質を充分に堪能させてくれることには変わりありません。







2017年5月31日水曜日

クラシック音楽の魅力と効用!?(1)









音質・音色・音量の
トーンとレベルが実に多彩

昔からクラシック音楽は他の音楽ジャンルに比べて、「心の健康にいい」、「胎内教育にいい」とかいろいろな効果がまことしやかに伝えられてきました。でも実際のところ、それはどうなのか…!? 何の根拠があってそんなことが言われているのか等々、不思議に思われる方も多いと思います。
そこで、今回は「クラシック音楽の魅力と効果!?」と題して、私の持論をお話しできればと思います!

まず、一つ言えるのはクラシック音楽は他ジャンルの音楽に比べると、「音域の幅が広い」ということです。音量も聞こえるか聞こえないかというレベルで奏でられる最弱音のピアニッシモから大音量で圧倒するフォルテ・フォルティッシモまで音質・音色・音量のトーンとレベルが実に多彩なのです。

一つの例をあげてみましょう。そこそこの音質のヘッドホンでロックやポップスを聴くと大抵の場合は満足できるのですが、クラシックの場合は必ずしもそうとは限りません。
結局、それは様々な性質の音域をどうやって魅力的な音として拾えるかどうかにかかってくるからなのです。繊細な音が単に弱く聴こえるだけではほとんどのクラシックファンは納得できないでしょう……。


感性を刺激し、
心を啓発する音楽

また、「感性を刺激する」ことも大きいと思われます。
たとえば交響曲、管弦楽曲の場合、主旋律やリズムだけでなく、音が幾重にも積み重ねられたり、テンポの変化や間のとり方次第で高揚感や悲哀な感情が生み出されたりします。この複合的な要素が、聴く人の精神的な側面にアプローチし、心に響いたり、共鳴するようになるのです。

とにかくクラシック音楽は、音の一つ一つや全体の構成に様々なメッセージが込められている場合がほとんどですから、眠っていた記憶が甦ったり、情景が心に浮かんできたりしやすいのです。

確かにクラシック音楽を聴くと、あらゆるイメージや発想のヒントが無意識のうちに湧いてきたりします。もちろん、それは聴く側の状況によって変化するのですが、気持ちが高まったり、得もいえぬ癒やしを感じたり、心の深い部分で共鳴するのは、知情意が充足し、創造力が高まっているからなのでしょう。

かつて漫画家の手塚治虫さんが創作に没頭するときに、必ずと言っていいほどクラシックを聴いていたというエピソードもうなずけるような気がします。(次回へ……)

2017年5月16日火曜日

ラヴェル 「亡き王女のためのパヴァーヌ(ピアノ版)」
















神秘的な余韻と
甘美なロマンチシズム

「亡き王女のためのパヴァーヌ」は以前、管弦楽曲とピアノ曲をまとめてご紹介したことがありますが、今回はピアノ曲だけに絞って書きたいと思います。

今やこの曲は、TVでさえ番組のBGMやCMで使われることが珍しくありません。クラシック音楽ファンでない方にとっても新鮮に聴こえるようで、「こんなに優雅でノスタルジックな音楽があったのか……」と驚かれる方も少なくないようです。そう、ラヴェルのピアノ作品で最もメロディラインが覚えやすく、しっとりとした情感に溢れているのが「亡き王女のためのパヴァーヌ」なのです。

親しみやすい理由はラヴェルがゆるやかな叙情性を前面に押し出しているため、神秘的な余韻があり、甘美なロマンチシズムが音楽に映し出されているからなのでしょう。
私はこの曲を耳にすると、いつも次のような情景が心に浮かんできます。「穏やかな風が心地よい晴れた夕刻の海岸。静かに寄せては返すさざ波と、キラキラと光る水面の変化を見つめながら時が経つのを忘れて身を浸す悠久なひととき……」。 



雰囲気たっぷりで
あるがゆえの難しさ

しかし、繊細で情感豊かなこのピアノ曲は実は演奏が大変難しいことでも有名です。演奏としての個性を出しにくいことと、曲が何度も停止して、少しずつ調を変えながら音楽が進行していく独特のスタイルのため、叙情性に押し流されやすいことがその理由なのでしょう。

フランソワは小品でも素晴らしい演奏をたくさん残しています。以前にも書きましたラヴェルの「水の戯れ」「古風なメヌエット」「ハイドンの名によるメヌエット」がそうですね! 
ここでは、作品が作品だけに、さすがのフランソワでも奔放に振る舞うということは難しいようですが、それでもしっとりとした味わいの魅力的な演奏です。特に素晴らしいのは音色でしょう。ピアニッシモが胸に響きますし、何とも言えない寂寥感が漂います。終始デリケートな感性が際立つのですが、冴えたタッチで弾かれた部分とのメリハリも効いています!

モニク・アース盤は彼女のラヴェル録音の中で最も優れた演奏ですね。このゆったりした叙情性こそ、彼女の演奏スタイルの本領なのかもしれません。例によって特別なことは何一つしていないのですが、ひたすら真摯に弾くことによって音楽が美しく立ち上っていくのです。
宮沢明子盤は1975年のライブですが、音は良く、真摯に曲に向き合った結果生まれたみずみずしさとはかなさが心に染みます。










2017年5月9日火曜日

オネゲル 「ダヴィデ王」
















日本では滅多に
プログラムに組まれない
名作オラトリオ

2017年のクラシック音楽イベント「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン」で目玉プログラムの一つと言われたのがオネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」でした。
実際、日本でコンサートプログラムに組まれることは極めて稀で、そのような意味でも大変に貴重な演奏会だったと言えるでしょう。

演奏はこのイベントが3年連続登場となるダニエル・ロイスの指揮で、彼が率いるシンフォニア・ヴァルソヴィア、ローザンヌ声楽アンサンブル、リュシー・シャルタン(ソプラノ)、他の豪華な布陣で、予想に違わぬ素晴らしい演奏となりました。

「ダヴィデ王」で、まず印象的なのがオーケストラの楽器編成ですね。音楽を司る役割を果たしているのが金管、木管、打楽器で、他に場面の雰囲気を盛り上げるチェレスタ、ピアノ、ハルモニウム等が加わります。それに対して弦楽器はチェロとコントラバスのみという、いかにも20世紀前半の空気感を伝える構成だったのでした。

特に主軸になるのはトランペット、ホルン、オーボエ、クラリネットでしょうか……。これらの楽器を駆使して、登場人物の心理描写やあたりの情景、場面のイメージ表現を巧みに行っているのです。



不安と恐怖に怯える
時代に生まれた名作

この独特の楽器編成は作曲された当時の世相も微妙に反映しているのかもしれません。
第一次世界大戦の傷跡がまだ癒えないにもかかわらず、日増しに共産主義やファシズムの足音が近づいてくる緊迫した状況下で、多くの人々が不安と恐怖で精神的な心の拠り所を喪失しかけていることを想わせるのです…。
どちらかと言えば、管弦楽や合唱、歌にしても先鋭的でありながら、現実の苦悩や悲しみ、希望をノスタルジックな響きで、聴き手側に様々な感情を喚起しているのです。

この作品で特徴的なのは、劇中の進行役にあたる語り手がいること(オラトリオやカンタータでいうレチタティーヴォ的な役割)です。ただ、これはレチタティーヴォと違い、歌が一切入らないのでナレーションそのものと言えるかもしれません。

しかし音楽は伴わないものの、この語り手の役割はとても大きいですね……。感情過多になって全体の品位を下げてはいけないし、かと言って感情を表現しないわけにはいかないし、音楽の間を縫い、引き立てる役割なので大変に難しいと言えるでしょう。
そんな語り手のメッセージで強烈に印象に残るのが、ダヴィデが死んだ後のフィナーレの詩です。
「いつかお前の樹の株に再び緑が戻り一つの花が咲くだろう。その香りはこの世のすべての民を、命の息吹で満たすだろう。ハレルヤ!」……。最後のハレルヤへ受け継がれる大切な詩で、この作品の核心部分と言っていいでしょう。まさにこの一節には人を信じていきたい切ない想いや、平和へのすがるような想いが込められているような気がしてならないのです。



改訂版のハーガーと
オリジナル版のロイス

さて肝心の演奏ですが、総合的に最も素晴らしいのがレオポルド・ハーガー指揮ミュンヘン放送管弦楽団、バイエルン放送合唱団、他(オルフェオ)です。1923年の改訂版(オリジナル版より大編成)を使用していて、全体的に骨太でスケールが大きいのが特徴です。しかし、細部まで神経が行き届いていて、管弦楽はまろやかで奥行きのある響きを生み出しています。合唱は深さと陰影があり、随所で美しいハーモニーを聴かせてくれます。語りも歌手も水準以上ですし、録音も良いため、この作品を最初に楽しむにはうってつけの名盤と言えるでしょう。

小編成のアンサンブルのため金管や木管楽器の響きが生々しく響きますし、曖昧な表現は極力排除されています。そのため、作品のディテールや構造が鮮明に浮かびあがってきます。また、合唱の透明感のある響きも実に見事です。
前述のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンでの演奏もソリストや合唱をはじめ、ズラリと同じメンバーが名前を連ねていました。