2017年7月27日木曜日

ジェシー・ネルソン I am Sam











「障害」というハンディが
背負う十字架

一人の人間が身体的、あるいは精神的に「障害」というハンディを背負うということはどういうことなのでしょうか?

ハンディがあるということは、当然生きる上で様々な壁が立ちはだかります。
通勤・通学、人とのコミュニケーションをとること、教育を受けること、就労や様々な手続きであったり……、影響は多方面に及びます。

それだけでなく、気持ちを伝えたくても伝わらない疎外感や周囲の人々の偏見の目や心ない言葉がもたらす心の傷……。それはおそらく健常者が考える想像をはるかに超えているのではないでしょうか?

周囲の温かな眼差しや気遣いがあってこそ、当事者の道が切り開かれていくのはもちろんなのでしょうけど……。それよりも大切なのは一人の人間として一切の偏見や変な同情心を捨てて心を開くことでしょうし、また、心の支えになっていく以外にないのかもしれません。

映画「I am Sam」の主人公サムも鑑定によると「精神年齢七歳」の知能の持ち主だったのでした。しかし、映画の中で知的障害者という特別な響きからくる重苦しさや哀しさは感じません。
なぜなら、同じアパートの住人でサムの娘の面倒をよく見てくれるアニーの存在や同じ知的障害を持つ仲間たちとの交流がサムにとっては何よりも心の拠り所であり、癒やしとして描かれているからなのです。

彼らはちょっと摩訶不思議なコミュニケーションを交わすのですが、まるで自分のことのように相手の気持ちを汲んだり、お互いを認め合っているのです。映画ではこのやりとりが丁寧に、そしてユーモラスに描かれています! それが何やら微笑ましく、見ているほうも次第に素直な気持ちになっていくのです。


一人娘ルーシーに注がれる
ピュアな愛情

この映画で最も美しい場面はサムが一人娘ルーシーに注ぐまっすぐな愛情でしょう。
言葉足らずでぶっきらぼうなのですが、サムが語りかける言葉や想いはルーシーにとってピュアな愛そのものだったのでした。 ルーシーもそのことを実感していたのでしょう。

ある日、「お父さんは普通のお父さんとなぜ違うの…」と素直に問いかけます。それに対してサムが「こんなお父さんでごめんよ」とすまなさそうに答えます。 見ていて何とも胸が詰まる場面ですね……。このとき、幼な子の心に初めて知的障害という概念を明確に認識した瞬間だったのでした。

一方でサムの人生は波乱の連続です。オープニングで妻のレベッカが産まれたばかりのルーシーを置き去りにして失踪したり、最愛の娘ルーシーの誕生日に近所の子を押し倒したことが発端で誤認逮捕されたり、それを契機にサムの人生の歯車が少しずつ狂いはじめます。

そして遂には親としての資格や養育能力がないという理由で、司法の力でルーシーとの親子の絆さえも引き裂かれてしまうことになります。それならば親として誰が本当にふさわしいのか?という、いつの時代においても難しい究極の質問が見る者に突きつけられるのです。それにしても検事や弁護士たちの答弁や質問が、あまりにも健常者の視点でしか物事を見ようとしないことに愕然とするではありませんか……。

それは、ルーシーを取り戻すために立ち上がってくれた女性弁護士のミシェル・ファイファーや里親としてルーシーを預かることになったローラ・ダーンも同じで、最初は「知的障害者」という色眼鏡で見たのでした。

しかし、サムと一人の人間として向き合う中で、結局人を引きつけるものは世間体や処世術ではなく、人間としての素直さやピュアな感情や無償の愛でしかないことに気づくことになるのです……。

小気味よいテンポとウイットに富んだユーモアが秀逸ですし、ショーン・ペンを始めとする出演者たちの見事な演技にも魅了されます。また動きがあり、時折アップの表情をとらえるカメラワークも最高で、終始見る者を惹きつけてやみません。ともすればお涙頂戴になったり、暗くなりがちなテーマですが、ウイットに富んだユーモアと奇をてらわない演出がさわやかな感動を呼びます。

2017年7月10日月曜日

ブラームス ピアノ協奏曲第1番 ニ短調作品15






















「血湧き肉躍る!」
若い情熱が爆発する作品

「血湧き肉躍る」という言葉があります。これは全身に活力がみなぎる時とか、試合に際して震えるような興奮を覚える時に使ったりしますが、ブラームスのピアノ協奏曲第1番ほど、この言葉を実感させる作品はありません。

この作品、とにかく音の厚みと湧き上がる情熱が凄く、内容的にはピアノを主役に据えたシンフォニーといってもいいほどで、ブラームスの持ち味が強く出た作品となっているのです……。嵐のように開始される第1楽章冒頭のティンパニの轟きから、その気迫に圧倒されます。続く悲しげな表情を湛えた第2主題も印象的な部分で、曲は様々な変化や発展を増し加えながらドラマチックに、ある時は詩情豊かに展開していきます。

第2楽章の叙情的で深い瞑想を想わせる第1主題は音楽詩人ブラームスの面目躍如と言っても過言ではありません。中間部のピアノのカデンツァは敬愛していたシューマンの夢幻的な響きを随所に感じさせるのですが、全体として音楽はブラームス流のしっとりとした味わいに満ちているのです。


演奏がツボにはまると
恐ろしいほどの感動を受ける

第3楽章フィナーレは、口ずさめるような第1主題がピアノによって奏されると、俄然音楽の見通しが良くなり、荒ぶる魂が全開のまま一気に突き進んでいきます。 ピアノとオケの絡みも絶妙で、充実した中間部から怒濤の勢いで輝かしいフィナーレを迎えるあたりはこの曲の最大の聴きどころでしょう!

後年の第2番に比べると、作品としての完成度は一歩も二歩も譲るかもしれません。しかし、若書きの作品であるにせよ、この曲は全体的にエネルギーやパワーに満ちあふれており、聴いていてワクワクドキドキする瞬間が多いのも確かです。協奏曲にありがちな、奇をてらうとか、これ見よがしの外面的な演出効果ではなく、「内なる声の叫び」であることが魂のカタルシスをもたらすのです!

また、ピアノ協奏曲第2番が熟成した作品であるため、誰がピアノを弾き、指揮したとしてもある程度の演奏になるのに比べると第1番は決してそうはいきません。1番はピアニスト、指揮者、オーケストラの楽員共々、作品に対する相当な思い入れや愛情がないと薄っぺらな音楽になってしまったり、音楽そのものが崩壊してしまう恐れを多分に含んでいるのです。ある意味怖い作品ですが、それだけに演奏がツボにはまると、恐ろしいほどの感動を受けたりもするのです!


指揮者主導のザンデルリンク盤と
ピアニスト主導のルービンシュタイン盤

演奏でまずおすすめしたいのが、エレーヌ・グリモー(ピアノ)、クルト・ザンデルリンク指揮シュタッカーペレ・ベルリン(エラート)です。何といってもザンデルリンクの指揮の凄さに脱帽です! 懐の深さ、有機的なオケの響き、壮大なスケール……。どれをとってもこれまで聴いたことがない世界が現れているではありませんか! 
ゆったりとしたテンポで噛みしめるように進めるのですが、退屈になることが一切ありません。これはもう、曲の本質をがっちり掴み、さまざまな音楽的ニュアンスを引き出した指揮者に大拍手するしかないでしょう。ピアノのグリモーもザンデルリンクの音楽に刺激されたのか、なりふり構わぬ遅めのテンポと強めのタッチで内容豊かな音楽を展開しているのには驚きです。

ここでのルービンシュタインのピアノは快調そのものです!もはやここまでくると遊びの境地……、融通無碍の世界と言ってもいいでしょう!ピアノから繰り出される一音一音に深い味わいとルービンシュタインの個性が光っています。そこには容易に真似の出来ない即興的な面白さや格調高い芸術的な響きが同居しているのです。
メータの指揮はルービンシュタインの波動に引き込まれるように大きな音楽を生みだし、オケから終始有機的な響きを引き出していて、ピアニスト共々、最後まで息の抜けない演奏を繰り広げていきます。

2017年7月5日水曜日

国立新美術館開館10周年 ジャコメッティ展





アルベルト・ジャコメッティ(ヴェネツィアの女Ⅰ)1956年、ブロンズ
マルグリット&エメ・マーグ財団美術館、サン=ポール・ド・ヴァンス
©Archives Fondation Maeght, Saint-Paul de Vence (France)





ミニマムで美しく
神秘的な作品

20世紀を代表する彫刻家としてアルベール・ジャコメッティの名前をあげる人はとても多いでしょう。彼の創作スタイルはキュービズム、シュールレアリズム等々に影響を受け、当時の前衛スタイルを体現するかのごとく、様々な作品を生み出したのでした。

しかし、ジャコメッティの本領が全開したのは、第二次大戦後にシュールレアリズムを捨てて、余分な虚飾を剥ぎ取ったといわれる細長い人体像の数々でしょう。ここには彼が理想とする美意識やポリシーが最大限に表現されているのです。一見すると不思議で個性的な作風ですが、ミニマムで美しく神秘的な作品は今なお多くの人の心を掴んでやまないのです。

11年ぶりに日本で開催されているジャコメッティの回顧展は大きな話題と反響を呼んでおり、初めてご覧になられる方も一度その作品を目にされれば、これまでにない感動と体験を味わうことが出来るのではないでしょうか……。




「国立新美術館開館10周年 ジャコメッティ展」

会期         2017年6月14日(水)から9月4日(月)
会場         国立新美術館 企画展示室 1E
住所         東京都港区六本木7-22-2
開館時間   10:00~18:00(金、土曜日は20:00まで)
休館日      毎週火曜日
料金         一般 1,600円(1,400)、1,200円(1,000)、800円(600)
※()内は団体、前売り料金。
※中学生以下無料。
※障害者手帳をご持参者(付添い1名含む)無料

チケット:国立新美術館、展覧会ホームページ、イープラス、セブンチケット、チケットぴあ、ローソンチケットほか主要プレイガイド
※プレイガイドによって手数料がかかる場合あり。

巡回先     愛知県・豊田市美術館(10月14日(土)~12月24日(日)


【問い合わせ先】
ハローダイヤル 
TEL  03-5777-8600

2017年6月28日水曜日

J.S.バッハ ミサ曲 ロ短調(BWV 232)

















ライフワークのように、
数十年もの歳月をかけて作曲された名曲

音楽の形式や言葉は明らかにカトリックのミサなのに内容的、精神的にはコラールを中心にしたカンタータやモテットに近いという何とも厄介(?)な作品がバッハのミサ曲ロ短調です。

この作品はバッハがライフワークのように、数十年もの年月をかけて段階的に作曲した作品でした。

「神に栄光を帰す」を生涯のテーマに掲げて創作に取り組んできたバッハにとって、これは作品の成立した背景や内容においてもその結論と考えてもよろしいでしょう。

輝かしさ、敬虔さ、宗教的情感、声楽作品としての芸術性の高さ、どれをとっても非の打ちどころのない作品ですね。特に傑出しているのは、全体の半分以上の割合を占める合唱でしょう。

それぞれの合唱は独立した声楽作品というよりは、キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥスというミサ曲の括りの中で有機的な関係性を持った神へのメッセージでもあるのです。

ですから、この作品をお聴きになる場合は選んで聴くよりは、通して聴いていただいたほうが(またはキリエ、グロリア、クレド…と、括りで聴いていただくのも良いかと…)はるかにバッハが何を言いたかったのかが直接的に伝わってくるはずです。



プロテスタントと
カトリックの壁を
超えたミサ曲

キリエの合唱で、冒頭から形を変えて何度も繰り返される「主よ我を憐れみたまえ」のフレーズは通常ですと単調になりやすい構成です。しかしバッハの手にかかると、打ちひしがれた魂が次第に音楽としても言葉としても高揚し、敬虔な響きとなり、遂には神に許しを請う強い実感を伴った響きとなって伝わってきます。グロリアやクレドの壮麗さは音による輝かしさではなく、愛と信頼による心の調和や平安を願うバッハの心意気が作品として強く息づいており、曲が進むにつれて胸が熱くなってきます。

また、グロリアの中間部と全体の最後に挿入される「Qui tollis peccata mundi」と「Dona nobis pacem」は歌詞こそ違えど、まったく同じ旋律のコラール(ルター派をはじめとするドイツ・プロテスタント教会の礼拝等で歌われた賛美歌)で、この作品の大きなアクセントになっています。同じコラールのはずなのですが、どういうわけか違うナンバーに聞こえてしまうのは、やはりバッハの曲中の扱い方や巧みな構成力の成せるわざなのでしょうか……。

この作品が出来上がった背景には諸説ありますが、私が思うにはバッハが誕生する数十年前、ドイツでは30年戦争(1618年~1648年にかけて、ドイツやヨーロッパ諸国を中心にプロテスタントとカトリックの間で起きた歴史上最大の宗教戦争)の開戦中でした。おそらく、大多数の国民は終わりなき戦いに辟易し、疲弊していたことでしょう。

前述のように「神に栄光を帰す」というポリシーで作曲してきたバッハにとって、そのような世の不条理と同じ神を信じる者の醜い争いには到底我慢できるはずがなく、その強い想いがプロテスタントとカトリックの壁を超えたミサ曲として結実させた一因になったのではないでしょうか……。



バラエティに富んだ
様々な名盤

ミサ曲ロ短調は録音が非常に多く、演奏形態もモダン楽器やオリジナル楽器の演奏の他、合唱のパートも大人数、少人数の演奏と多種多彩で、様々な名演奏を聴くことが出来ます! 「ミサ曲ロ短調」は作品の内容、スタイルからしてもマタイ受難曲やヨハネ受難曲のようなドラマチックで情緒豊かな演奏向きとは違い、無駄な表情や過剰な思い入れはできるだけ排除したシンプルなスタイルが好ましいように思われます!

中でも最も心惹かれるのが、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮モンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(SDG)です。2015年のライブ録音ですが、とにかく合唱の精度の高さは半端ではありません。特にグロリアやサンクトゥス等では主題というより、ともすればサッと流してしまいかねない中間部や経過句といったつなぎの部分のうまさが際立っています!
ソリストたちの歌も大袈裟な表現になるのを極力抑え、それぞれ透明感を湛えつつ、心地よいバランスと表情を保っているのがいいですね。
全体的に極めて音楽性が高く、流れを損なうことなく一気に聴かせてしまう表現力はさすがです。しかも、しっかりと本質を突いており、先入観なしでミサ曲ロ短調を聴いても充分に美しく、聴く喜びを与えてくれる演奏でしょう。

トーマス・ヘンゲルブロック指揮バルタザール=ノイマン合唱団、バッハフライブルク・バロック・オーケストラ(ドイツハルモニアムンディ)もオリジナル楽器の演奏ですが、合唱も管弦楽もまったくわざとらしさがなく、自然な発声と情感溢れる表現が素直に心に響いてきます。恐らくミサ曲ロ短調で、これほど心の通った合唱のハーモニーを聴くのは初めてのことではないでしょうか……。ヘンゲルブロックのタクトも奇をてらわず、見事としか言えません!









2017年6月19日月曜日

シューマン 交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(2)













重厚なロマンの香りと
勇壮な迫力!

ロマン派の大作曲家シューマン。そのシューマンが重厚なロマンの香りを最大限に発揮した交響曲が第3番「ライン」でしょう。

まず驚くのが、何かが吹っ切れたかのように、迷うことなく勇壮に前進する第1楽章の迫力です。何というインパクトと情熱でしょうか!序奏なしで、いきなり開始される堂々とした第1楽章の第1主題からこの曲に惹きつけられてしまいます……。しかもその曲調はシューマンらしい歌にあふれ、美しいロマンチシズムを醸し出していて、片時も聴く者を退屈にさせません。

人によっては重苦しい作品だと評価する方もいらっしゃいますが、私は決してそうは思いません。
むしろシューマンは「ライン」を作曲した時、よほど調子が良かったのではないでしょうか……。印象的な第1主題、第2主題をはじめ、訴える力、発展する要素、高まる情感、すべてにおいて渾然一体となった魅力が充満しているのです!

第2楽章は同じ音型を小刻みに繰り返す主題がゆるやかなラインの流れを想起させます。ここでも第1楽章同様に随所に奏でられるホルンの響きが心のゆとりと風格を伝えてやみません。中間部の管楽器が奏でる淡く悲しい憂いの表情も後ろ髪を引かれるように過ぎ去っていきます……。

第3楽章はもっともシューマンらしいメロディが頻出します。夢と現実を交差するようなロマンチシズムの極みは何とも言えない情感を拡げていきます。
ケルンの大聖堂から着想を得たといわれる第4楽章は厳粛で崇高な響きが鎮魂曲や祈りにも似た全曲のクライマックスと言えるかもしれません。フィナーレの颯爽とした展開や充実した展開部、怒濤の迫力を醸し出す終結部分も見事です。



チェリビダッケと
ジュリーニの名演奏

真っ先におすすめしたい演奏はセルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィル(EMI)の演奏です。「ライン」はロマン的情緒あふれる作品だけに、どちらかというと、いわゆる巨匠風の武骨な表現が相容れない作品でもありました。しかし、この演奏は違います。相変わらずのゆったりとしたテンポなのですが、深い呼吸と細部の彫琢があまりにも見事なためスローテンポが気にならなくなってしまうのです。 演奏の素晴らしさがスタイル云々の問題を超えた数少ない例のひとつではないでしょうか!

雄渾な迫力と持続する集中力も圧倒的で、シューマンの心の動きさえ伝わってくるようです。何度聴いても飽きず、おそらく「ライン」からこれほど深い意味を表出した演奏はなかったのではないかと思います。

カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルスフィル(ユニバーサル・ミュージック)は万人向けの名演です。旋律は良く歌われ、メリハリが効き、この曲からイメージされるロマン的な特徴をことごとく兼ねそろえた理想的な表現といっていいでしょう。演奏スタイルにしても、テンポや楽器のバランスが絶妙で、管弦楽の立体的な構築や密度の濃さにも特筆すべきものがあります。作品との相性の良さが、これほどまでの名演奏を可能にしたのかもしれません。

2017年6月15日木曜日

クラシック音楽の魅力と効用!?(2)










人間の本質的な部分に共鳴して
作曲されるクラシック音楽


クラシック音楽は「波長が高い」とよく言われます。
それはなぜなのでしょうか?

一般的にクラシック音楽を構成するテーマや形式、旋律、音色はキリスト教文化の中で誕生し発展した経緯がありました。つまり、クラシック音楽にはキリスト教精神のひとつの要素である「愛と寛容」の精神が多かれ少なかれ脈々と受け継がれてきたのです。交響曲、協奏曲、独奏曲、室内楽曲、声楽……と、どのようなジャンルの作品であっても、そこには繊細で優美な感情が込められている場合がほとんどです。

喜びに震えたり、哀しみにうちひしがれたり、祈りであったり、瞑想や崇高な感情であったりと、人間の本質的な部分に共鳴して作曲されているので、知らず知らずに高い境地に引き上げられていくことが多いのです。

たとえばバッハの平均律クラヴィーア曲集を聴くと、そのことが強く感じられます。プレリュードとフーガのそれぞれの曲がまるでひとつのメッセージのように心の奥底に染み入ってきます……。それは忘れかけていた遠い記憶であるかもしれないし、心の満ち足りた想いを想起させるものかもしれない、また、哀しみをそっと慰めてくれるものかもしれない……。
一編の詩のようでもあり、短編小説のようでもあり、ひとときの夢のように私たちの心に滔々と語りかけてくるのです。



自分だけの名盤!
鑑賞が深まる契機に

当然、クラシック音楽は大作曲家が残した作品の演奏を聴いて楽しむことなのですが、時として聴き手が創造に加わっているような感覚を味わえることもあります。

たとえばベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を聴いた時に、爽やかなスッキリとしたスタイルの演奏だったとしましょう。でも「それがあまりにもスッキリしすぎて物足りない……」、「もっとスケールの大きい演奏が聴きたい……」、そのような欲求が心の奥底から出てくることがあります! そのように思った瞬間、あなたの感性の扉は大きく開かれ、作品の本質に大きく踏み込んだとみていいでしょう。それと同時に再創造的な作業が実行された瞬間であるといっても決して過言ではないのです!

クラシック音楽の聴き方はこれが正しい、こうでなければならないというルールや解答は一切ありません。同じ曲を聴いたとしても、感じる世界は人それぞれです。その人が育った環境や個性、経験等によって感動の度合いや伝わリ方にも当然のように違いが出てくるのです。

世には音楽評論家というお仕事があって、その方々が推薦するいわゆる名演奏やCDの名盤はたくさん存在します。しかし忘れてならないのは「世評の高い名盤=私にとってのいい演奏」とは限らないということなのです。

ですから、多くの演奏やCDを体験しながら、まずは自分にとっての相性のいい音楽、入っていきやすい音楽や演奏を見つけることも裾野を広げる近道かもしれません。心の音楽と思える作品や演奏家が見つかったときの喜びはたとえようがなく、それは終生の心の財産になり得る可能性もあるのです。


本当は楽しい
クラシック音楽

最後に一つだけどうしてもつけ加えておきたいことがあります。
日本では現在でもクラシック音楽を教養としてとらえる傾向があるのですが、クラシックファンとして、それはある意味とても残念で、寂しいことですね……。

かつて、小学校や中学校の音楽室には大作曲家の肖像画が一つの権威の象徴として張り出されていたものでした。それがクラシック=難しい=特別なもの、堅苦しいものという図式を生んでしまったのかどうかは定かではありませんが、どうもクラシックというと煙たがられ、雛壇の高いところに置かれてきたように思います。

私はこれまでクラシック音楽を教養として聴いたことは一度もありません。
おそらく教養として聴いていたなら、クラシックを好きになることもなかったでしょうし、途中で嫌になって聴かなくなったことは間違いないでしょう。

クラシック音楽の良さは同じ曲を聴いても、演奏家や指揮者が変わるとまったく違う性格の音楽に聴こえることがあります。それがいいのですね……。そうでなければクラシック音楽は理屈っぽくて平面的でつまらない音楽ジャンルになりさがってしまうことでしょう。

これがいわゆる一人一人の個性、感性や芸術観、表現の多様性によるオリジナリティの原点ですし、芸術の妙味なのです。それだけ音楽は奥が深く味わい深いものなのかもしれません。

本当はもっともっとクラシック音楽の良さ、楽しさを実感できるようなイベントが頻繁にあったり、(唯一、ラ・フォル・ジュルネオ・ジャポンは貢献していると思います)気軽にクラシックの生の演奏に触れあう機会やメディアでの啓蒙があればどれほど素晴らしいことでしょうか! 日本のクラシック音楽界や団体にも大いに努力していただきたいものですが、いかがなものでしょうか……。

2017年6月5日月曜日

ハイドン 交響曲第104番ニ長調

















ワクワクドキドキの
ハイドンの交響曲

ハイドンは生前約40年にわたって100曲以上の交響曲を作り続けてきた文字通り「交響曲の父」でした。
その作品はいずれもハイドンならではの魅力がいっぱいに詰まっています!たとえば、主題では明るい笑顔を振りまいたり、可愛らしい一面を覗かせている……と思いきや、見事な主題の展開に息をのんだり、コーダや中間部では突然、雄大なスケールのフーガに圧倒されたり、終始聴く者の心をワクワクドキドキさせてやまないのです!

そのハイドンの交響曲の集大成のような作品が、言うまでもなく最後の交響曲「ロンドン」ですね!

ただし、これまでの交響曲と違う一面も見られます。
特に顕著なのが第1楽章の序奏でしょう。どちらかというと、これまでは主題への橋渡し的な役割が強かった部分ですが、この作品ではオープニングから緊張感が漲り、哀しみに満ちたテーマが一つのクライマックスを創りあげているのです!これはロンドンセット全般に言えることなのですが、中でも104番は顕著ですね!

第1主題が出てくると曲調は一変。懐かしい微笑みを浮かべたテーマが春のような彩りを届けてくれます。もちろん、それは単に明るく爽やかなだけではありません。涙を振り払いつつ、一歩一歩前進していこうという気概や哀しみに揺れる心が共存しているのです。

その揺れる心が絶対的な確信へと変貌するのが第4楽章フィナーレです。
この踊るような推進力に満ちたテーマを聴けば、誰もがベートーヴェンの交響曲第7番フィナーレ(ワグナーが「舞踏の神化」と称した)を思い出されるかもしれません! 民謡風のメロディーは明るく快活に奏でられ、まるで生きる歓びを謳歌するようにドンドンと音楽は発展していきます。

第2楽章のどっしりとして、心のゆとりや風格を感じるテーマも見事ですし、第3楽章の小気味よいテンポとおどけたテーマも秀逸です!



例外的にモダン楽器演奏がしのぎを削る
交響曲第104番「ロンドン」

ハイドンの交響曲の演奏は近年、オリジナル楽器の演奏が主流であることは間違いありません。確かに名演奏もオリジナル楽器版が多いのですが、私は104番に関する限り、モダン楽器のほうがいいと思いますね。なぜなら、オリジナル楽器だと、どうしても序奏の表現に音色の厚みや芸術的な深さが乏しくなってしまう恐れがあるからなのです……。

そういう観点で最も素晴らしいのが、セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘンフィルハーモニー(ワーナークラシック)の演奏です。まず、序奏の重厚で厳かな響きと緊張感に心を鷲掴みにされます。第1主題への自然なフレージング、呼吸の深さ、楽器の豊かな響き等、いずれもハイドンが伝えたかった本質が伝わってくるといってもいいでしょう。第2、第3楽章も焦らず、急がず、そのインテンポの中でハイドンの音楽の豊かな音色を存分に聴かせてくれます!

カール・シューリヒト指揮フランス国立管弦楽団の録音(ALTUS)は1955年、フランス・モントルー音楽祭のモノーラル・ライブですが、ドラマチックでありながら、ハイドンの本質をしっかりと捉えた屈指の名演奏です。特に第1楽章の1小節ごとに表情が変わる感性の鋭さや楽器の潔い音色、生き生きとしたテンポの流動感、フレージングは見事の一言です。

シギスヴァルト・クイケン指揮ラ・プティット・バンド(ドイツハルモニアムンディ)はオリジナル楽器ならではのテンポといい、楽器の彫りの深さ、スタイルの洗練された美しさといい、モダン楽器にはないシャープな感覚で魅了します。奇をてらわず、そうかといって薄味になることもなく、ハイドンの本質を充分に堪能させてくれることには変わりありません。